生徒会長になってからの自分は、まあ可もなく不可もなくといったところだったと思う。ただ、就任間もなく、下級生が一人、部活中の事故で亡くなってしまうという出来事があった。同じ高校の生徒とはいっても、1000人近くいる大規模な学校だ。大半の生徒とは、普段すれ違う程度で、顔も名前も知らなかった。
生徒会長として弔辞を読まなくてはならなくなり、これには本当に困った。その人への個人的な想いが浮かばないので、どんな文章を書いたらいいか、さっぱり見当がつかなかったからである。生徒会長選の時には、少しの淀みもなかった私の弁舌も、この件に関してはまったく役に立たなかったのである。
そんな時、その会長選に立候補したときに私に皮肉を言った担任の先生――関口先生だったか――が声をかけてきて、「とりあえず草稿を書いてくれば、僕が見てあげるよ」と言ってくれた。
なぜ、そのときのやり取りをいまだに鮮明に覚えているかといえば、草稿を読んでもらったときに、関口先生がとても意外なことを言ったからだ。
「是空君らしく、とてもやさしい文体だね」 「でも、内容はあっさりしすぎていて、もう少し感情を込めた方がいい」
この言葉が私には妙に刺さった。
まずもって、これは謎に満ちた言葉である。 そのまま受け取れば、「文体は優しいが、内容が優しくない」ということだろうが、それはその通りなのである。なにせ、亡くなった生徒のことをよく知らないのだから。 まあ、しかし、そこは大人の対応(それらしい情感)を盛り込めという意味なのだろう。嘘をつくのが厭な私の性格を読まれたようにも思えたが、ただ、それはわかる。
しかし、前半の「やさしい文体」とはどういうことだろう。
――たしかに、関口先生は国語の先生だから、私の答案を見たことはあると思う。しかし、それだけの情報から、一介の生徒の文体なんて気に留まるものだろうか。
私はバリバリの理系人間だったはずなのに、どうして「やさしい文体」などと思われたのだろう。
この先生は、私が理系を選択しながらも、すでに世界をモノとしか見ない既存の枠組みに対してどこか冷めた視線を向けていること――理系という将来にあまり期待していないということ――に気がついているとでもいうのか。
そうだとしても、そもそも「優しい文体」とはどのような文体だというのだろうか。 社交辞令として他に褒める点がないから、批評のバランスをとるために適当にあしらっただけではないか。そう疑いたくもなるが、関口先生の口ぶりには、妙に生々しいリアリティがあった。だからこそ、こうして何年経っても心に残っているのだ――

最近、私はある出来事から、これまでの論文のような堅苦しい文章だけでなく、歌詞や小説を書くことが多くなった。それは私を助けてくれたかけがえのない恩人に向けた言葉なのである。そういうときには、しばしばこの時の関口先生の言葉を思い出すことがある。 そう、不慣れな私にもきっと書けるはずだという、どこか自信のようなものを与えてくれたあの言葉に、今となっては感謝しているのかもしれない。